『日本書紀』によると、
甲寅の歳、45歳のとき
日向国の地
高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「
天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘?(179万2470余年。
偽書とされる
神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から
饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。
戊午年の2月、船団を出して浪速国に至る。3月、
河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて
生駒山を経て中州へ入ろうとした。この地を支配する
長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。